やっとの思いで病院にたどり着くと、親父殿は病院のベッドでちんまり毛布にくるまっていました。
手足や顔に所々まだ茶色のペンキが付いたままですが、どうやら落ち着いた様子。
兄と一緒に先生から怪我の容態説明を受けました。
「お父さんはね・・・、(レントゲン写真を見せながら)大腿骨のこの部分がポッキリ折れた状態です。本来なら金具とボルトを使って固定する手術をしなければいけない・・・ところが、実はこの病院のヘリポートには、今、被災地から緊急搬送されてくるたくさんの患者さん達がいます。この人達は命にかかわる重傷で一刻も早く治療をしなければなりません・・・。大変申し訳ないし我々としても心苦しいのですが、お父さんの症状は安定していると言える状態ですので・・・少しこのままの状態でご辛抱いただけるとありがたいのです。いかがでしょうか」
多摩総合医療センターにはERがあります。
そしてラジオからのニュースや、帰宅難民となった方達がゾロゾロと徒歩で線路脇の幹線道路を歩く様子などをみてきた私達。もちろん、父には申し訳ないですがお医者さんのおっしゃることに異を唱えることなど出来ません。
先生にお任せしますと返事をし、戻った談話室では白煙を上げる福島原発が映し出されたテレビを不安そうに見つめる人達がいました。
その後、父の手術が行われたのは確か4日後のことだったと思います。
その間、もちろん動けるわけもない父のたわいのないわがままに
「親父、今はね、ここに来るためのガソリン入れるのだって何十分も列作って並ばないといけないんだぜ(^_^;)」
「・・・・(-_-)」
「嘘じゃないって、コンビニなんか行っても、「お握り」なんて売ってないの!病院の食事をありがたくいただきなって!美味しくないなんていったら罰が当たるんだから」
「親父、ここは病院だから停電しないけど下界では、あっちこっちで計画停電なんてものがあってだねぇ・・・」
「嘘つけ!!(=_=)年寄りだと思って・・・いいから!なにか食う物買ってこい!(>o<)」
幸い、多摩地区あたりでは東北地方に比べて被害が少なく、当社で施工中だった大國魂神社宝物殿改修工事は前社長抜きで順調に施工が進んでいきました。
使用材料もすでに発注、受取済みであったため、この後に起こった千葉県のコンビナート火災による塗料不足の影響も受けず、施工中であったからこそ建物全体のクラックの発生がないことを実際に確認することが出来ました。
ただ一つ、忘れられないのが、翌日、現場で私に話しかけてきた随神門(ずいじんもん)を施工なさっていた宮大工さんのお一人。
「ペンキ屋さん、親父さん大変だったなぁ・・・」
「いやいや、お騒がせして申し訳なかったです」
「なに言ってんだ、大事にしてやれよ。俺の家もさ~、津波で流されちまったんだ~」
「え!それは!こんなところにいていいんですか?」
「飛んでいきたいけど、連絡が取れねぇからどこに行けば良いかわかんねぇのさ」
あの宮大工さんの御家族は一体どうされたのでしょうか?
今でも随神門をくぐる度、思い出すのです。
あの地震の府中市の負傷者が親父ただ一人だったと広報をみて知ったのは後々のことです。
しばらくの間、商工会議所や市役所でその話題が出たのは、親父がお祭り馬鹿で妙に顔の広いところが有ったからでしょう。
次男で家を出た私が、ひょんなことから転居先の囃子連に入ったのも親父の血なのかもしれません。